「コドモノ」ってこと
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想いのながれ
おなじ川なのに、場所によって、ぜんぜん、ちがう。でも、すこし、ひいて、川ぜんたいを見れば。すべての水は、おなじ方向へ、流れている。海へと、向かって。こどもを想う、ぼくたち大人も、おなじなんじゃないか。やり方は、ちがっても。向かっている海は、おなじ。こどもの、ゆたかな生、という海へ。
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目をとじて、手をにぎろう
10年が、経った。あの子たちと、過ごした日々から。あのころ、ぼくは、あの子たちの「未来」を、いっしょうけんめい、描いていた。でも、それは、ぼくの見ている未来だ。その子自身の未来とは、ちがう。じゃあ、先生は、何を、みつめればいいんだろう。そうだ。目を、とじよう。そして、手を、にぎろう。
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得るものと、失うもの
教育によって、こどもは、たくさんのものを、得ていく。でも、得ているとき、同時に、何かを、失ってはいないだろうか。そもそも、教育は、社会のなかで生きていく「ため」のいとなみ。得るものを、よろこびながら、同時に、こぼれ落ちていくものにも、目をこらす。その、両方の目を、もっておくこと。
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分かる、たびに
子どものころ、海の音を、ただ、きいていた。いまは、「波の音だ」と、すぐに分かる。分かって、通りすぎる。頭で分かるたび、ぼくは、何かを、忘れていっている気がする。分かることで、見えなくなるものが、たくさん、ある。風の声。海の唄。星の、ささやき。分かることの、すこし手前で。
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内へ、向かう時間
元気なあいさつ。元気な返事。元気いっぱい、笑顔いっぱい。どれも、すてきなこと。でも、そうじゃないことも、たくさんある。そして、その「そうじゃないこと」も、とても、すてきなこと。学校は、どうも、外へ向かう力が、強い。自分の心に、ひたる時間。ぼくは、そういう時間を、大切にできる教室にしたい。難しいかなあ。
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その子にしか
ひとりの子が「せんせい、くもがわらってる」と言った。ぼくには、ただの雲だった。でも、その子には、たしかに、わらっている雲が、見えていた。その子にしか、見えないものがある。せかいは、ひとつだ。でも、ひとつじゃない。学校を考えるとき、どんな大地の上に立てるかで、その姿は、まるで変わってくる。
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世界に、立つ
あの子は、だれかのために、立っているのではない。ただ、自分の足で、自分の場所に、立っている。教えたのではない。育てたのでもない。その子は、はじめから、その子として、世界に向かって立っている。
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考える、その前に
ふと、空を見上げたとき。その、あんまりの美しさに、はっと、心をうばわれることがある。子どもたちは、いつも、そうやって生きている。頭で、ものを考える、その、ずっと手前の次元で。ぼくたち大人にも、その「生」の次元に、ときどき、立ち返ることが、必要なのかもしれない。
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省察とあのとき感じていたこと
自分は、子どもたちにとって、いい先生だったのだろうか。思い返すのは、反省ばかりだ。でも、省察をすればするほど、あのかけがえのない日々が、少しずつ、別のものに書き換えられていく気がする。あのとき、たしかに感じていたこと。それ自体もまた、大切にしたい。
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大事だと思う、そのことを
せんせいをしていると、「これは大事だ」と思うことが、たくさんある。それは、たぶん、ほんとうに大事なものなのだと思う。でも、と、ふと立ち止まる。ほんとうのほんとうのところは、どうなのだろう。
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見えないもの、といっしょに
教室には、雰囲気、というものがある。うまく説明はできない。でも、たしかに、ある。目には見えないのに、確かに、そこにあって、はたらいている。ぼくたちは、いつも、見えないものと、いっしょに生きているのだ。
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情熱のうちの、冷静さ
だれもが、それぞれに、いろんなことを抱えて、生きている。子どもたちは、一人ひとり、ぼくが経験したこともないようなことを、経験している。だから、先生にできることには、たしかに、範囲がある。でも、それは、あきらめではない。
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分かる、ではなく
自分のことが、自分でも、よく分からない。でも、それは、当たり前のことなのだと思う。分かるわけが、ない。「分かる」というのは、なにかを、対象として、外から眺めることだから。
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くちびるを、噛んだ
運動会の、開会式。みんなの前で、マイクの前で、あの子が立っていた。代表のあいさつ。話し始める、その直前。あの子は、くちびるを、軽く噛んだ。
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ことばは、どこからくるのか
ことばは、どこからくるのだろう。あたまで、かんがえて、ことばになるのだろうか。それとも、こころから、うまれてくるのだろうか。あるいは、だれかとの出合いのなかで、ふいに、生まれるのだろうか。
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ものさしが来た日
ものさしが来た日のことを、ときどき思う。なにも奪わないよ。なにも禁じないよ。ただ、きみがどれだけできるか、測ってあげる。わるいことは、なにもない。だから、ぼくらは、うなずいた。
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験(ため)される場所
手数が増えると、嫌になる。子どもたちを見ていて、そう思う。そして、子どもだった自分を思い出しても、そう思う。ほんとうに必要な分だけでいい。
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「したい」が、先に
子どもたちに、学ぶことの楽しさを、味わってもらいたい。ずっと、そう思っている。でも、その「楽しさ」は、どこから来るのだろう。考えてみると、いつも、あるひとつのところにたどりつく。
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箱から、考えない
授業って、一つの教室で、みんなでやるもの。——ぼくたちは、そう思いすぎているのかもしれない。そう思うのは、あるころの自分の授業を、今になって思い出すからだ。
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「こども」ということば
「こども」ということばについて、考えることがある。ぼくたちは、あたりまえのように、この言葉を使う。子どもを守るために、子どものために、と。でも、この「こども」という一語には、たぶん、二つの顔がある。
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ふれられないところ
無意識って、とても大事だと思う。ふだん、あまり口にしない言葉かもしれない。でも、子どものそばにいると、この、目に見えない深みのことを、思わずにはいられなくなる。
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ことばって、呼吸する
子どもが書いた文章を読むと、大人の目には、どこか整っていないように見える。主語と述語がねじれている。同じ言葉が何度も出てくる。話があちこちへ飛ぶ。つい、赤えんぴつで直したくなる。でも、直す前に、少し立ち止まりたい。ほんとうに、それは「間違い」なのだろうか。
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「先生」にならないように
逆説めいた言い方になるけれど、せんせいは、「先生」にならないほうがいいのかもしれない。ときどき、そう思う。先生になると、役割のほうが、その人をつくりかえていく。
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せんせいのしごとは、ランニングに似ている
今日も、走った。走りながら、ふと思う。学校教育というのは、ある意味で、ランニングに似ているな、と。短距離走ではなくて、うんと長い距離を、こつこつ走っていく。それに近い気がするのだ。
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こどもは、ファンタジーのなかを生きる
絵本を読んでいる子どもの顔を、すぐそばで見ていると、感じることがある。その子は、いま、物語のなかにいる。ページの向こうの世界を、ほんとうに生きている。子どもにとって、空想は、つくりものではない。
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出合うということ
あの子は、何が言いたかったのか。もう卒業して、何年も経つのに、ふとした瞬間に、その顔が浮かぶ。ぼくは、あの子にちゃんと出合えていたのだろうか。かかわれていたのだろうか。答えは、いまも出ない。
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こどもといるって、ふしぎ
卒業していった教え子に、会うことがある。すっかり大人になっている。正直に言うと、はじめの一瞬、誰だか分からない。でも、少し話しているうちに、大人びた今の顔の奥から、小さかったころの面影が、にじみ出てくる。
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その子が見ている世界を
「子どもが好きなんですね」と言われることがある。先生をしているから。誰でも、口では「子どもが好き」と言える。でも、ほんとうに好きかどうかは、たぶん、言葉ではないところで、分かってしまうものだ。
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出合いとしてのあいさつ
朝、校門に立って、登校してくる子どもたちと「おはよう」を交わす。何十回、何百回と繰り返してきた、ありふれたやりとりだ。あいさつは「大切なもの」として教えられる。でも、その「大切さ」を、どこかで取りちがえてないだろうか、と最近思う。
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すでに満ちている
子どもの前に立つと、つい欲が出る。もっとできるように。もっと伸びるように。この子の、まだ見ぬ未来を思い描いて。それは、大切なことだと思う。でも先日、その願いを一枚ずつはがしていったとき、いちばん下に残ったのは、ずいぶん素
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「力」って
生きる力。学力。人間力。コミュニケーション力。非認知能力。そして「資質・能力の三つの柱」。 教育の世界は、子どもの成長を、ほとんど例外なく「力」の語彙で語ります。「生きる力」を掲げてから、まもなく30年。私たちはこの言葉
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「うまい発問」の先にあるもの——子どもの思考は、誰のものか
先生たちのなかで、多く交わされる言葉は「発問」と「指導」。あの場面の問い方はどうだったか。どう切り返せば、もっとねらいに迫れたか。ぼくたちは額を寄せ合い、熱心に技術を磨こうとする。 けれど、その熱心さの足もとには、ひとつ
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すでに教える前に
すでに主体として 教える前にすでに子どもたちは主体として生きているぼくたち教師の意識に先立って子どもはすでに主体として「いる」 思っているのと反対 もしかすると子どもは不完全なところがあって教師が導かなくてはいけないそん
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主体性を問う
主体性を問うこと自体に課題がある主体性は他者によって意味づけられるものではないだろう子どもはすでに主体として生きているすでに主体として生きている子どもを大人が見つめ 価値づけ その主体性を意味づけることはすでに主体として
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目的のない時間
学校では どんな教育活動にも 目的がある目標なんて言われたりする授業をするにも 行事をするにもゴールを意識して先生として 子どもたちに 指導?するでも 「せんせい」は本当の本当はそうじゃない次元にも目を向けてなきゃいけな
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おしりがむずむず
子どもの頃の はじめての授業参観ぼくは 椅子に ちゃんと座っていられなかった大人になってから 母親に言われた反対を向いて 椅子の背もたれに両足をのせてたって今でも なんとなく そのときの気持ちを覚えてるその当時 母親は
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子どもは大きくなる
子どもは大きくなる大きくなるように ぼくらがコントロールしてるんじゃない子どもは、自分の想いで大きくなる先生は そんな単純なことを忘れることがある自分が育てているんだと子どもは、自ら大きくなる子どもは、自ら自らを育むその
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あいさつ
あいさつはコドモノあいさつは社会にでて大切だからとかあいさつは人と人をつなぐものだからとかあいさつは人間関係の潤滑油だとか大人の論理であいさつを語りたくないあいさつは、スキルや社会的なツールじゃないあいさつはコドモノ子ど
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大人になる途中
子どもは「大人になる途中」じゃないでも、ときに大人は子どもを「大人になる途中」という存在として見てしまう見てないって思っても、どうしてもそういう目が働いちゃう 「今」という瞬間 「今」という瞬間を生きるかけがえのない一個
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コドモノ目
「コドモノ目」がキラキラしているっていう「せんせい」はそのキラキラを知ってる自分の目で見ちゃってる 客観的なエビデンスっていう狭くて分かりやすいものにとらわれるとキラキラ?きらきら?それって何ってなる証明できるのって?何
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ちゃんと、しっかりと
ちゃんと、しっかりちゃんとして、しっかりやろう抽象的で、何だか分からない大人が子どもに言いがちなワード何がちゃんとで、何がしっかりか大人の目からみた「ちゃんと」大人の目からみた「しっかり」大人の枠組みが強ければ強いほど大
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コドモノ主体性
子どもを主体としてみる 「主体性」って言葉を多く見る子どもの「主体性」が育まれていくためには結論、子どもを「主体」としてみるってことにつきると思うじゃあ、「主体」としてみるって、どんなことだろう 「子ども」という言葉 「
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コドモノことを語ろう
「せんせい」の楽しみ 職員室で、子どもの話をする「せんせい」の楽しみ今日、あの子はこんなことがんばったこんなことができるようになったコドモノ笑顔や涙を、学びを語り合うこんな楽しい時間はないときに指導しなくちゃいけないこと
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「コドモノ」
学びは「コドモノ」ってこと 授業は「せんせい」がするものだけどそこで生まれる学びは「子どものもの」「コドモノ」なんだと思う。でも授業をしていると、指導案って言われるのかな自分の思っている授業の流れがあって自分が考えている