出合いとしてのあいさつ
朝、校門に立って、登校してくる子どもたちと「おはよう」を交わす。何十回、何百回と繰り返してきた、ありふれたやりとりだ。
ぼくは長いあいだ、あいさつを「大切なもの」として子どもに教えてきた。きちんとあいさつができるように、と。でも、その「大切さ」を、どこかで取りちがえていたのかもしれない、と最近思う。
あいさつを、道具にしていないか
あいさつは大事だよ、と言うとき、ぼくはたいてい、その理由も添えてきた。「気持ちよく過ごせるから」「社会に出て困らないように」「人間関係がうまくいくから」。
まちがってはいない。でも、これだと、あいさつは何かのための手段になる。人づきあいをなめらかにする、潤滑油。やりとりを円滑にする、道具。うまくやるための、技術。
そういうものとして教えられたあいさつは、たぶん、うまくなる。声も大きくなる。角度もそろう。けれど、いちばん大事なものが、そこからこぼれ落ちてはいないだろうか。
「きみが、そこにいる」
ほんとうのあいさつは、もっと素っ気なくて、もっと深いもののような気がする。
朝、その子に「おはよう」と言う。それは、用件でも、取引でもない。ただ、きみがそこにいる、ということに、ぼくが気づいた——その合図なのだと思う。
あいさつは、出合いだ。目の前にいるのが、ほかの誰でもない「その子」であること。世界にただ一人の、代わりのいない相手であること。そのことに、ふと触れる。うまいも、へたもない。ましてや、道具などではない。
分かりきらない相手に、頭が下がる
もう一つ。あいさつには、どこか、頭の下がる感じがある。
目の前の相手のことを、ぼくは分かりきってはいない。この子が今朝どんな気持ちで家を出てきたのか、ほんとうのところは分からない。人は、いつも、こちらの理解を少し越えている。
その、分かりきらなさの前で、それでも「おはよう」と声をかける。それは、畏れにも似た敬いの、小さなあらわれなのだと思う。あいさつが自然と出るのは、相手を軽んじていないときだ。逆に、心のどこかで相手を見くびっているとき、あいさつは、すっとは出てこない。
だから、「あいさつしなさい」という言い方を、ぼくはもう少し変えたい。上手にあいさつのできる子を育てたいわけではない。目の前の相手に、ちゃんと出会える人であってほしい。そして、それはまず、ぼく自身のことだ。
今朝の「おはよう」は、潤滑油だっただろうか。それとも、出合いだっただろうか。校門に立つたび、そっと問い直している。