学びは、向こうからやってくる
算数の時間、ずっと首をかしげていた子が、ある瞬間、「あ」と言う。目の色が変わって、さっきまで止まっていた手が、急に動きだす。
ぼくは、特別なことは何もしていない。さっきと同じ説明を、もう一度しただけだ。でも、さっきは届かなくて、いまは届いた。あの「あ」は、いったいどこから来たのだろう。
学びは「させる」ものだと思っていた
ぼくたちは、学びのことを、つい「させる」ものとして語る。学ばせる。身につけさせる。定着させる。まるで、こちらが正しい手順を踏めば、子どもの中に知識を一つずつ据えつけられるかのように。
指導案も、目標も、評価も、その考えの上に立っている。ぼくがこう教えれば、この子はこう学ぶ、はずだ、と。そして、実際にうまくいくこともある。
けれど、あとあとまで残る学び——あの「あ」の瞬間は、たいてい予定どおりには来なかった。横あいから、思いがけないところから、ずいぶん遅れて、ふいにやってきた。ぼくが用意した筋書きの、すぐ隣で。
起こるのを、待つ
あの「あ」は、ぼくがつくったものではない。起こったのだ。向こうから、現れた。
畑に似ている、と思う。土を耕し、種をまき、水をやることはできる。でも、芽が出る、その瞬間だけは、こちらの都合では動かせない。整えて、あとは待つ。芽は、向こうの側から出てくる。
授業は、ものづくりよりも、畑仕事に近いのかもしれない。組み立てて仕上げるのではなく、整えて、待つ。
こわいのは、「ぼくの説明が、この子を学ばせた」と思い込んでしまうときだ。そう確信した瞬間、ぼくはもう、その子を見ていない。生きている「いま」ではなく、テストの点数——学びが残していった、あとかたのほうを見ている。そうして、次の「あ」を見逃す。目が、ちがうところを向いているから。
見逃さないこと
だとすれば、ぼくの仕事は、「あ」をつくり出すことではないのかもしれない。それがやってきたときに、そこに居あわせて、見逃さないこと。土を、いつでも整えておくこと。
子どもが学び、ぼくはそれに立ち会う。そう言うと、ずいぶん受け身に聞こえる。でも、これがいちばんむずかしい。何かが、ふっと現れる、その一瞬に間にあうくらい、急がず、目を離さずにいること。
ぼくは、これからも指導案を書く。目標も立てる。それは土を整えることの一部だから、手放すつもりはない。ただ、「ぼくが学びを起こしている」とは、もう思わない。
整えて、見ている。そして、あの「あ」が——その子の側から、向こうからやってきたとき、それを見逃さないでいたい。きょうも教室で、その一瞬を待っている。