プロフィール

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SENSEI NO SHIGOTO

教室で子どもたちと過ごしてきた日々のなかで、考えたことを書いています。ゆっくり、ひとつずつ。

どこに、立つか

「今ここ」ということを、このごろ、よく考える。

時間は、過去から未来へと、一直線に流れている。ぼくたちは、あたりまえのように、そう思っている。でも、ほんとうに、そうだろうか。

一直線の、時間

考えてみると、その「一直線に流れる時間」というのは、ひとつの、ものの見方だ。

昨日があって、今日があって、明日がある。過去は終わり、未来はまだ来ない。今は、そのあいだの、一点。——たしかに、便利な見方だ。予定を立て、順番に進め、成長を測る。ぼくたちの社会は、この時間の上に、できている。

そして、学校もまた、この時間の上に建っている。学年があり、学期があり、時間割がある。「まだできない」から「できる」へ。「今」は、いつも、次のための準備。一直線の時間は、学校の、いちばん深い基盤になっている。

でも、世界そのものは

でも、と思う。ほんとうの世界は、たぶん、それとは違う。

子どもが、花に見入っている、あの瞬間。友だちと笑いあっている、あの時間。それは、「過去から未来への一点」なんかじゃない。その「今」が、まるごと、満ちている。前も、後ろもなく、ただ、その時が、ゆたかにひらいている。

時間を一直線に並べたのは、ぼくたち人間だ。世界を、そう意味づけた。でも、世界そのものは、たぶん、そんなふうにはできていない。子どもたちが生きている「今」は、一直線の線の上の、通過点ではない。それ自体が、満ち足りた、ひとつの世界なのだ。

どの地平に、立つか

そう考えると、学校の姿も、大きく変わってくる。

一直線の時間の地平に立てば、学校は、「未来のために、今を積み上げる場所」に見える。でも、「今ここ」という地平に立てば、学校は、「子どもが、今日という一日を、まるごと生きる場所」に見えてくる。

同じ学校でも、どの地平から見るかで、まるで違って見える。どちらが正しい、という話ではないのかもしれない。ただ、ぼくが、どこに立って子どもを見ているのか。そのことが、見えてくるものを、決めている。

「せんせい」は、どこに

だから、と思う。

「せんせい」にとって、いちばん大事なことのひとつは、たぶん、どこに立っているか、ということだ。どんな方法を使うか、より前に。どんな地平から、子どもを、世界を、見ているのか。

一直線の時間の上で、子どもを「途中の存在」として見るのか。それとも、今この時を生きる、満ち足りた一人として見るのか。——立つ場所が違えば、同じ子どもが、まるで違って見える。かける言葉も、待つ時間も、変わってくる。

ぼくは、どこに立っていたいだろう。子どもの「今」を、通過点ではなく、かけがえのない、満ちた時として見られる場所。そこに、立っていたい。立ち続けることは、むずかしいけれど。ときどき、自分の足元を、確かめながら。