糸を、たぐる
ある書類を、今年も、つくっていた。
去年も、おととしも、つくった。たぶん、その前も。「毎年、出すものだから」。——そう思いながら、手を動かす。でも、ふと、ペンが止まった。これは、いったい、だれのための書類だったろう。この先に、こどもは、いるのだろうか。
こどもから、遠いしごと
せんせいのしごとには、こどもに、まっすぐつながらないことも、たくさんある。
授業は、こどものすぐ前にある。でも、しごとの多くは、もっと、遠い。書類。会議。報告。手続き。——こどもから、距離の遠いしごと、と言ったほうが、いいかもしれない。それが、悪いわけではない。遠くても、めぐりめぐって、こどもにつながっているものは、たくさんある。
でも、と思う。なかには、つながっていると思っているだけ、のものもある。あまりに遠すぎて、途中の糸が、もう、見えなくなっているもの。
もう、そこにこどもはいない
正直に言えば、こうだ。学校のために。教育の制度、それ自体のために。ただ、形を守っているもの。
はじめは、こどものために、始まったのかもしれない。でも、いつのまにか、目的が、入れかわる。制度を、保つことが、目的になる。前からやっているから、やめられないから、続けている。——その先には、もう、こどもは、いない。大人が、大人のために、形を保っている。そういうしごとが、たしかに、ある。
全部が、いらないわけじゃない
ただ、それを、全部いらない、とは、思わない。
残すこと、それ自体に、意味をもつものも、ある。すぐに役に立たなくても、続けてきたという、その積み重ねが、学校を、静かに支えていることもある。形を守ることが、だれかの、よりどころになっていることも。——だから、「こどもにつながっていない=むだ」と、かんたんに、切り捨てたくはない。そこは、慎重でいたい。
糸を、たぐる
それでも。こどもと、つながっていないもの。それは、注意深く、糸を、たぐっていかないといけない、と思う。
この手もとの書類から、糸は、どこへ、のびているのか。たぐっていった先に、こどもの顔は、見えるのか。それとも、途中で、ぷつりと、切れているのか。——一本ずつ、たしかめる。見えなくなった途中を、ていねいに、たどりなおす。めんどうな作業だ。でも、これをしないと、ぼくたちは、気づかないうちに、こどものいない仕事に、時間を、うばわれていく。
視野を、広げて
これも、たぶん、せんせいとしての、しごとに対する大切な省察なのだと思う。
リフレクション、というと、ぼくは、つい、目の前の授業のことを、ふりかえる。あの場面で、どう声をかけるべきだったか。——それも、大切だ。でも、もっと視野を広げて、自分のしごと全体を、見わたすこと。ひとつひとつの糸が、こどもに、つながっているか。たぐってみること。それも、おなじくらい、大切な、ふりかえりなのかもしれない。
近くを見る目と、遠くまで糸をたぐる目。その両方を、持っていたい。ときどき、ペンを止めて。この先に、こどもは、いるだろうか、と。