沈黙って、すてきだなあ
沈黙って、すてきだなあ。
そう、自然に思えたら、いいなと思う。ふだん、ぼくたちは、静かになると、なんだか落ち着かない。間があくと、埋めたくなる。でも、沈黙は、たぶん、埋めるべき空白ではないのだ。
想いをめぐらす、静けさ
授業をしていると、しんとする時間がある。
問いを投げたあと。詩を読み終えたあと。だれかのひとことが、みんなの胸に落ちたあと。子どもたちが、じっと考えている、あの静けさ。あれは、何も起きていない時間ではない。むしろ、いちばん、たくさんのことが生まれている時間なのだと思う。
沈黙は、子どもたちが想いをめぐらすときの、静けさだ。ことばになる前の、ことば。声にならない、心の動き。その、大事な時間を、ぼくは、あわてて壊してしまっていなかっただろうか。沈黙がこわくて、つい、次の言葉をかぶせて。
生まれくるところ
沈黙は、たぶん、ぼくたちの「生」の根底に、静かに広がっている。
ふだんは、たくさんの音や、ことばや、忙しさに覆われて、見えない。でも、その底には、いつも、沈黙がある。そして、何かが生まれてくるのは、きっと、そこからだ。ことばも、思いも、いちばん深いところの、あの静けさから、ふっと立ち上がってくる。
だから、沈黙を、大切にしたい。急いで埋めず、こわがらず、そのままにしておく。生まれてこようとしているものを、待つように。
欠けているのではない
ここで、ひとつ、書いておきたいことがある。
沈黙は、けっして、音がない、欠けた状態ではない。「まだ何も言えていない」「話が止まってしまった」——そういう、足りない状態ではないのだ。沈黙は、沈黙として、あるがままに、満ち足りている。
これは、この頃ぼくが、いろいろな場面で感じていることと、同じだ。子どもは、欠けた存在ではない。学びは、足りないものを埋めることではない。沈黙も、同じ。それは、それとして、すでに満ちている。何かで埋めなければならない空白ではなく、それ自体が、ゆたかな何か。
沈黙のある教室
沈黙のある教室は、すてきだなあ、と思う。
しんとした時間を、こわがらない教室。子どもが、ことばになる前のところで、ゆっくり想いをめぐらせていられる教室。
だって、そういう静けさのなかでこそ、子どもの学びが生まれるから。——いや、生まれる、というより、その沈黙のなかで、学びは、もう、すでに生まれているのかもしれない。ぼくたちに、見えていないだけで。
だから今日も、教室がしんとしたら、あわてないでいたい。その静けさを、こわさずに。すてきだなあ、と、思いながら。