こどもは、ファンタジーのなかを生きる
絵本を読んでいる子どもの顔を、すぐそばで見ていると、感じることがある。
その子は、いま、物語のなかにいる。ページの向こうの世界を、ほんとうに生きている。目が動き、息を呑み、そして、ぱっと笑う。ここではない、どこかで起きていることに。
こどもは、ファンタジーのなかを生きている
子どもにとって、空想は、つくりものではない。
空を飛べる。怪獣と出合う。物語の登場人物といっしょに、本気で悲しみ、本気で笑い、本気で怖がる。大人が「それはお話でしょう」と言う、その「お話」のなかを、子どもは、実際に生きているのだ。
ごっこ遊びも、そうだ。棒きれが剣になり、段ボールが船になる。子どもは「ふり」をしているのではない。その世界に、まるごと、住んでいる。ひとりごとの声も、絵本のページも、布団のなかの闇も、みんな、行き来できるひとつづきの世界なのだと思う。
それは、「生」のゆたかさ
これを、幼いから、とか、まだ現実が分かっていないから、と片づけたくない。
むしろ、逆なのではないか。そこには、ぼくたち大人が、いつのまにか失いかけている、「生」のゆたかさがある。世界とのあいだに、壁がない。花とも、風とも、雲とも、そして怪獣とも、へだてなく、まっすぐ出合ってしまう。
大人は、たいてい、世界を「見て」いる。こちら側から、あちら側を、対象として。でも子どもは、世界の「なか」にいる。見ているのではなく、生きている。この、へだてのなさこそ、子どもという存在の、いちばんの特性なのだと思う。そしてそれは、ゆたかな感受性の、別の名前でもある。
意識より前の、深いところ
このゆたかさは、頭で考えて、意図してつくるものではない。
もっと深いところ——意識よりも前の、無意識の次元から、ひとりでに湧いてくる。だから、教えることも、鍛えることも、できない。大人が「想像力を伸ばしてやろう」とすると、たいてい、とたんに、それは別のものになる。目標や、能力や、成果の話にすり替わって、あの生き生きとした世界は、すっと、しぼんでしまう。
守り育てる、というのとも、少し違う気がする。育てようと手を伸ばした時点で、もう、こちらの意図がそこに入ってしまうから。
想いを向けるということ
だから、ぼくにできるのは、たぶん、そこに想いを向けることくらいなのだと思う。
子どもの世界を、大切に想うとき。あの子は、いま、どんな空を飛んでいるのだろう。どんな物語のなかで、誰と出合っているのだろう。それを、分かろう、つかまえよう、とするのではなく、ただ、そういう世界を、この子は生きているのだ、と想う。そして、その世界が、しぼんでしまわないように、そっとしておく。
子どものファンタジーは、こちらが手を加える何かではなく、こちらが、そっと想いを向ける、その先にひろがっている世界なのだと思う。子どもの世界を大切にするというのは、案外、そういうことなのかもしれない。