プロフィール

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SENSEI NO SHIGOTO

教室で子どもたちと過ごしてきた日々のなかで、考えたことを書いています。ゆっくり、ひとつずつ。

出合うということ

あの子は、何が言いたかったのか。

もう卒業して、何年も経つのに、ふとした瞬間に、その顔が浮かぶ。ぼくは、あの子にちゃんと出合えていたのだろうか。かかわれていたのだろうか。答えは、いまも出ない。

引き継げる責任と、引き継げない責任

教師として子どもと出合ったとき、そこには、ほかの誰にも代わることのできない責任が生まれる。

年度が替わり、担任が代わり、子どもは卒業していく。そのとき、ぼくたちは引き継ぎをする。学習のこと、友達との関わり、気をつけてきたこと。記録に書いて、次の担任へ、進学先へと手渡していく。仕事の上での責任は、そうやって引き継がれていく。それは、代わってもらえる。

でも、それとは別の責任がある。「あの子」と出合った「ぼく」としての責任。これは、引き継げない。次の担任は、その人自身の責任を負うのであって、ぼくの責任を引き受けるのではない。あの子とぼくのあいだに生まれたものは、記録には書けないし、誰かに代わってもらうこともできない。

別れた後も、訪れる

不思議なのは、その責任が、別れた後も消えないことだ。

あの子は、もういない。卒業して、会うこともない。それなのに、あの子の存在は、ずっとぼくに訪れる。ふとした瞬間に、あの顔、あの声、あの日の教室。いないのに、訪れる。

だから、問いは終わらない。あの子は、何が言いたかったのか。ぼくは、ちゃんと出合えていたのか。その問いは、あの子が目の前からいなくなっても、ぼくのなかに残り続ける。いや、いなくなったからこそ、いっそう、静かに訪れてくるのかもしれない。

答えの出ない問いとともに

この問いに、答えは出ない。

人と出合うということは、その人を分かりきる、ということではないからだ。見終えて、これでこの子は分かった、とすることができない。だからこそ、問いは残る。それは、ときに苦しい。けれど、その苦しさは、ぼくがあの子から目を離しきらなかった、ということでもある。見終えたことにしてしまえば、もう問うこともない。

答えの出ない問いを、答えの出ないまま、抱えていく。たぶん、出合うというのは、そういうことなのだと思う。

人と出合うということ

そして、これは、教師だけのことではないのだろう。子どもと大人だけのことでもない。

誰かと、ほんとうに出合ってしまったら、その人への「ぼくとしての責任」は、もう、誰にも代わってもらえない。別れても、いなくなっても、その人はぼくを訪れ続ける。それを、重い、と言うこともできる。

でも、ぼくは、そこにこそ、人と人とが出合うことの、ほんとうがある気がしている。代われないこと。終わらないこと。訪れ続けること。人と出合うって、きっと、そういうことなんだろう。