見えないもの、といっしょに
教室には、雰囲気、というものがある。
うまく説明はできない。でも、たしかに、ある。
見えないのに、確かにある
ドアを開けた瞬間、なんとなく分かる。今日は、いい空気だな、とか。少し、ざわついているな、とか。
言葉になる前の、その、なんとも言えない感じ。それが、その日の教室を、大きく左右する。同じ授業をしても、雰囲気がやわらかい日は、子どもたちの言葉が、ふわりと出てくる。雰囲気がかたい日は、なかなか、出てこない。
雰囲気の影響は、たぶん、ぼくたちが思っているより、ずっと大きい。目には見えないのに、確かに、そこにあって、はたらいている。
見えないものは、だめ?
でも、こう言う人もいる。
雰囲気なんて、眼にも見えないもの。そんな、あやふやなもので、教育を考えちゃだめだ。もっと、はっきり見えるもの、数えられるもの、確かめられるもので語りなさい、と。
その気持ちも、分からなくはない。見えるものは、扱いやすい。共有もしやすい。でも、ぼくは、少し、立ち止まってしまう。ほんとうに、見えないものは、考えるに値しないのだろうか。
せかいは、見えないことばかり
だって、と思う。
ぼくたちは、いつも、見えないものと、いっしょに生きているのだ。だれかを想う気持ち。悲しみ。信頼。ためらい。愛情。——どれも、眼には見えない。手に取ることもできない。でも、それらがなかったら、ぼくたちの毎日は、成り立たない。
いってしまえば、せかいは、見えないことばかりなのだ。見えるものなんて、ほんの、一部でしかない。いちばん大切なものは、たいてい、目には見えないところで、静かに、はたらいている。
むしろ、見えないものを、ちゃんと、あるものとして扱う。そこから始めないと、大事なところを、まるごと、こぼしてしまう。
見誤らないために
見えるものだけで、教育を考える。数えられるものだけで、子どもを見る。——それは、一見、確かで、正しそうに思える。
でも、そこから始めると、たぶん、見誤る。いちばん大きくはたらいている、雰囲気や、気持ちや、その子の見えない世界を、はじめから、勘定に入れていないのだから。土台が、ずれてしまう。
見えないものと、いっしょに生きている。せかいは、見えないことばかり。——それを、前提にする。そこから、始める。
そうしてはじめて、ぼくは、目の前の、この教室の、この子の、ほんとうのところに、少しだけ、近づけるような気がしている。