箱から、考えない
授業って、一つの教室で、みんなでやるもの。——ぼくたちは、そう思いすぎているのかもしれない。
そう思うのは、あるころの自分の授業を、今になって思い出すからだ。
いくつもの学びが、同時に
あのころ、一つの時間のなかに、いくつもの学びが、同時に展開していた。
図書室で調べものをしている子がいる。教室で動画を観て学んでいる子がいる。職員室まで取材に行っている子がいる。それぞれが、それぞれのしたいこと、知りたいことに向かって、動いている。ひとつの「授業」という時間が、一枚の絵ではなく、いくつもの物語が同時に進む、にぎやかな地図のようになっていた。
そんな授業を、たしかにやっていたなあ、と思い出す。それがふつうだった。
みんなで、それぞれ
もちろん、みんなで一緒にやったほうがいいこともある。同じ問いを、みんなで囲んで考える。だれかの発見に、教室ぜんたいがざわめく。あの時間には、一人ではたどりつけないものがある。
でも、それぞれのほうがいいことも、たしかにある。この子が今、ほんとうにふれたいものは、あの子が今、たしかめたいことは、みんな同じではない。同じ時間、同じ場所、同じ教材——それが、いつもいちばんいいとはかぎらない。
みんなでと、それぞれと。どちらかではなくて、その子にとって、今、どちらがいいのか。ほんとうは、そこから考えたい。
箱から、考えない
「授業」や「教室」という箱から、考えていないだろうか。
この時間で、何をやらせるか。この教室で、どう動かすか。箱を先に置いて、そのなかに子どもを入れて考える。すると、いつのまにか「みんなで、いっせいに」が、あたりまえになっていく。箱の形が、学びの形を決めてしまう。
でも、ほんとうは、逆なのだと思う。この子が、何をするか。何にふれるか。何を考えるか。——そこから、考えはじめたい。箱があって子どもがいるのではなくて、子どもがいて、その学びのために、場や時間がある。
あの子が、この子が
だから、「みんなが」ではないのだ。
みんなが、ではなく。あの子が。この子が。一人ひとりが。名前のある、その子が、今、何にひかれ、何にむかっているのか。授業を、そこから考えられたらいい。
「みんなで一つのことを」も、その一人ひとりが選び取ったときには、ゆたかな「みんなで」になる。箱から出て、一人ひとりの顔から考える。そうすると、授業という時間は、もっと自由で、もっとその子のものになる気がする。
あのころの、にぎやかな地図みたいな教室を、今、もう一度思い出しながら。