「先生」にならないように
逆説めいた言い方になるけれど、せんせいは、「先生」にならないほうがいいのかもしれない。ときどき、そう思う。
役割が、その人をつくりかえていく
先生になると、役割のほうが、その人をつくりかえていく。
子どもの前にいるのが、いつのまにか「ぼく」ではなく、「先生」になっている。先生らしい声、先生らしい表情、先生らしい言い回し。ぼくたちは、その時代その時代の「先生像」を、いつのまにか着ている。
厳しくて怖い先生。友達みたいな先生。なんでも見通している先生。求められる姿は時代によってずいぶん変わるけれど、どの時代にも「先生らしさ」があって、ぼくたちはそこに、知らず知らずに寄っていく。
それ自体は、悪いことではないのだと思う。仮面には、仮面の役目がある。三十人の前に立つとき、それが自分を支えてくれることもある。
こわいのは、その仮面が、いつのまにか剥がれなくなることだ。
その下に「ぼく」がいる、ということ
すべての役割を外して、ありのままのぼくで子どもの前に立つ、なんてことはできない。たぶん、その必要もない。
ただ、それ以前に、「ぼく」なんだ、ということが、覆い隠されないようにしたい。仮面の下に、まだ一人の人間がいるということ。それだけは、埋もれさせたくない。
なぜかというと、子どもが出合っているのは、「先生」という役ではなく、ぼくという一人の人だからだ。子どもは、たぶん、そこを見ている。役に向かってではなく、その人に向かって、話しかけている。
ちゃんと子どもと出合うために。ぼくが、ぼくとして、子どもとともにいるために。
考えている、ということ自体が
ここまで書いてきて、思う。
「先生にならないようにしよう」——そう考えること自体が、「自分は先生である」ということを、強く意識していることの裏返しなのだ。
仮面を外そうとして伸ばした、その手つきが、もう仮面をかぶっている。力を抜こうとして、かえって力んでしまうのと、同じことだ。抜こうとしている限り、抜けない。
難しいもんだ、と思う。ぐるぐると回って、出口がない。
理屈じゃないんだよなあ
でも、結局のところ、これは理屈ではないのだと思う。
子どもといっしょに、心から喜び、感動し、泣いたり、笑ったりしている「せんせい」が、実際にいる。何かを装っているようには、まるで見えない。ただ、その人が、そこにいる。子どものとなりで、その人のまま、笑っている。
あの人はきっと、「先生にならないように」なんて、一度も考えたことがないのだろう。考えていないから、そう在れる。ぼくがぐるぐる考えているあいだ、その人は、その人としてこどもとともに過ごしてる。
すてきだなあ、と思う。