「こども」ということば
「こども」ということばについて、考えることがある。
ぼくたちは、あたりまえのように、この言葉を使う。子どもを守るために、子どものために、と。でも、この「こども」という一語には、たぶん、二つの顔がある。
守ってくれる、ことば
ひとつは、守る顔。
「こども」という言葉があるから、ぼくたちは、その存在を、大切に扱おうとする。まだ小さいから、育ちのとちゅうだから、守らなければ、支えなければ、と。子どもの権利も、子どもの安全も、この言葉があるからこそ、社会は守ろうとする。ことばが、その存在に、居場所を与えている。
それは、大事なこと。「こども」という言葉が、たしかに、一人ひとりの子どもを、守っている。
位置づけて、しまう、ことば
でも、同じ言葉が、もうひとつの顔を持っている。
「こども」と呼んだ瞬間、ぼくは、その存在を、「こども」という枠のなかに、位置づけてしまう。まだ未熟な者。教えられる側。守られる側。大人である自分より、どこか下のほう、手前のほうにいる者として。——言葉が、いつのまにか、その子を、ひとつの対象に変えてしまう。
守るための言葉が、そのまま、見下ろすための言葉にもなる。「まだ子どもだから」。そのひとことで、ぼくは、目の前のその人を、ちゃんと見なくてもよいことにしてしまう。位置づけた時点で、もう、見終えたことにしてしまうのだ。
ほんとうは、違いはない
でも、ほんとうのところは、どうだろう。
大人も、子どもも、存在としては、一個の、かけがえのない主体である。汲みつくせない深さを持ち、代わりのいない「その人」を生きている。そこに、上も下も、先も後も、ない。年齢や、経験や、できることの多さ、失ったものの多さ——そういう違いはある。でも、一個の存在として、かけがえがない、という一点においては、大人も子どもも、まったく、同じなのだと思う。
「こども」という言葉は、便利だ。手放すことはできない。ただ、その言葉を使うたびに、ぼくは、忘れないでいたい。この言葉の下に、ひとりの、対等な存在がいる、ということを。
対等に、向き合って
だから、ぼくは、ともに在りたい。ただ、対等に、向き合って。ひとりの主体と、ひとりの主体として。その子が見ている世界を、こちらも本気で知りたいと思いながら。
そんなふうに、子どもと語りたい。「子ども相手」の話し方ではなく、「その人」と話すように。きっと、子どもは、そういう向き合い方を、いちばん、感じ取っている。誰が自分を「こども」として扱い、誰が自分を「その人」として見ているか。子どもは、たぶん、ちゃんと、知っている。
「こども」という言葉のなかに、その子を閉じこめないように。今日も、目の前のひとりと、対等に、向き合えたら。 でも、それがむずかしい。