ことばって、呼吸する
子どもが書いた文章を読むと、大人の目には、どこか整っていないように見える。
主語と述語がねじれている。同じ言葉が何度も出てくる。話があちこちへ飛ぶ。つい、赤えんぴつで直したくなる。でも、直す前に、少し立ち止まりたい。ほんとうに、それは「間違い」なのだろうか。
大人は、言葉を道具にする
ぼくたち大人は、言葉を、道具として使っている。
正確に伝えるために。誤解されないために。収入を得るために、信頼を得るために、この社会で生きていくために。だから、大人の言葉は、整っていて、固まっていることが、よしとされる。崩れず、ぶれず、意味がひとつに定まっていること。
それは、大切なことだ。仕事の文章が揺らいでいたら、困る。ぼくも毎日、そういう言葉を使って生きている。ただ——ことばには、もっと世界がある。
ことばは、呼吸する
そもそも、ことばって、ゆたかに呼吸するものなのだと思う。
ふくらんだり、ちぢんだり。色を変えたり、大きさが変わったり。同じ「うれしい」でも、その日その日で、まるでちがう手ざわりをしている。ことばは、生きて、揺れ動いている。
子どもの作文の、あの「整わなさ」は、たぶん、呼吸していることばの姿。同じことばをくり返すのは、そのことばが、その子のなかで、まだ熱を持って動いているから。話が飛ぶのは、心が、生き生きと飛んでいるから。
それは、至らなさではない。子どものことばは、揺れ動いたまま、今、満ち足りている。整っていないのではなく、生きているのだ。そしてその揺れは、そのまま、その子の精神の、みずみずしい現われでもある。
大人になっても、揺れ動くことばと
宮沢賢治は、大人になっても、そんな揺れ動くことばとともに生きた人のように思う。
クラムボン。イーハトーブ。どっどどどどうど。辞書には載っていない。意味は、ひとつに固まらない。同じことばでも、ひらがなと漢字が混在する。それなのに、たしかに、何かが、そこで生きて呼吸している。賢治は、大人になっても、子どものことばの世界に、住み続けた人なのかもしれない。だから、あの作品たちは、今も、あんなにも生きている。
そのゆたかさを、みつめる心
だから、子どものことばの揺れを、ゆたかさとして、みつめられる心。子どものことばの世界を、大切にする心。それが、ぼくたち大人に、せんせいにとって、大切なのだと思う。もちろん、いつか、道具としての言葉も、必要にはなる。でも、それは本当のことばの姿とは違うのかもしれない。
こどものことばの、色や、大きさや、熱を、味わえたら。 そもそも、ことばって——