ことばは、どこからくるのか
ことばは、どこからくるのだろう。
子どものそばにいると、ときどき、そんなことを思う。
どこから
あたまで、かんがえて、ことばになるのだろうか。 それとも、こころから、うまれてくるのだろうか。 あるいは、だれかとの出合いのなかで、ふいに、生まれるのだろうか。
子どもが、ぽつりと、なにかを言う。その一言は、いったい、どこからやってきたのだろう。 考えてから、言ったのではない。むしろ、言ってから、自分でも驚いているようなときがある。ことばのほうが、その子より、少しだけ先に来ている。
どこからくるのか。ほんとうのところは、わからない。わからないけれど、確かに、その子のなかから、あるいはその子と世界とのあいだから、ことばは、生まれてくる。
育てる、のではなく
子どものことばは、どんなふうに育っていくのだろう。
「大人が、育てる」。——そう言いたくなる。でも、なにか違う気がする。 どちらかというと、「育まれていく」。そう言うほうが、しっくりくる。
育てる、というと、大人が主語になる。大人が、こうして、ああして、ことばを大きくしてやる、というふうに。でも、そうじゃない。ことばが育っていく、その主体は、いつも、子どものほう。
子どもが、世界にふれ、だれかと出合い、心を動かし、そのなかで、ことばが、ひとりでに育っていく。大人は、その主語には、なれない。
育まれていく
「育まれる」ということばには、主語が、ふたつある。
育つのは、子ども。でも、その育ちは、その子ひとりの力だけでは、起きない。かけがえのない人からかけられた声、読んだ物語、見た景色、あたたかいまなざし——たくさんのものに、包まれて、育っていく。
だから、「育てる」でも、「育つ」でもなくて、「育まれていく」。誰かが操作するのでもなく、ひとりぼっちでもなく。その子を主体としながら、その子を、世界がそっと抱いている。ことばは、そういうふうにして、育っていくのだと思う。
わからないまま
ことばは、どこからくるのか。 子どものことばは、どんなふうに育まれていくのか。
ほんとうのところは、やっぱり、わからない。 でも、わからないままで、いいのかもしれない。わかってしまったら、たぶん、大人はまた、それを「育てよう」としてしまうから。
わからないものを、わからないまま、大切にする。 その子のことばが、その子のなかから、その子と世界のあいだから、育まれていくのを、ただ、そばで、待つ。
ぼくにできるのは、きっと、それくらいのことなのだ。