終わりがないから、区切る
せんせいのしごとには、終わりがない。
やろうと思えば、いくらでもある。この子のことも、あの子のことも、明日の授業も、あの準備も。想いを込めれば込めるほど、しごとは、どこまでも、増えていく。
終わりがないから、区切る
終わりがないからこそ、自分で、区切ることが、必要になる。
ここまで、と決める。今日は、ここで終わる、と。それは、手を抜くこととは、ちがう。むしろ、終わりのないしごとを、これから先も、長く、健やかに続けていくための、大切な知恵なのだと思う。
倒れてしまっては、続かない。すり減ってしまっては、いちばん大事なとき、子どもの前に、いい自分で立てなくなる。だから、区切る。区切ることは、逃げではなく、誠実さの、一つのかたちなのだと思う。
自分のためだけじゃない
そして、と思う。ぼくたちは、自分のためだけに、しごとをしているのではない。
学校は、ぼく一人のものではない。ぼくがいなくなった後も、ずっと続いていく。この先も、たくさんの子どもたちが、ここで生きていく。その、子どもたちの生きる場を、丁寧に整えていくこと。——それも、せんせいの、大切なしごとなのだ。
目の前の子どものために、精一杯やる。それは、もちろん、尊い。でも、それだけでは、足りないのかもしれない。この場所が、この先も、いい場所であり続けるように。その、見えない土台のことまで、考えていく。
これから来る人のために
だから、自分の想いだけで、がんばるのは、少し、ちがうのだと思う。
ぼくが、身を削って、なんとか回している。もし、そういうやり方だったら、それは、ぼくの次に、ここでせんせいとして生きていく人に、「あなたも、身を削りなさい」と、手渡すことになってしまう。
そうではなくて。これから、せんせいとして生きていく人たちのことも、考える。その人たちが、無理なく、いい仕事ができるように。しごとの在りかたそのものを、丁寧に、つくっていく。それもまた、いまここにいる、ぼくたちの役目なのだと思う。続いていくものを、少しでも、いいかたちで、次へ。
異なる次元
せんせいには、たぶん、いくつかの次元がある。
たとえば、「せんせいとしての、生き方」。子どもとどう向き合うか、どう在りたいか。——このブログで、ぼくがずっと書いてきた多くは、こちらのこと。熱く、まっすぐで、一人ひとりの想いに根ざしている。
でも、それとは別に、「せんせいという、職業としての次元」がある。続いていく学校を、どう整えるか。働き方を、どう持続可能にするか。次の世代に、どう手渡すか。——こちらは、もっと静かで、冷静で、みんなのためのもの。
生き方の情熱だけでも、職業の冷静さだけでも、たぶん、足りない。熱い想いを胸に抱きながら、同時に、続いていく場を、そっと整えていく。——その両方を、たずさえていられたら、と思う。終わりのないしごとを、それでも、いいかたちで、ずっと先へ、つないでいくために。