プロフィール

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SENSEI NO SHIGOTO

教室で子どもたちと過ごしてきた日々のなかで、考えたことを書いています。ゆっくり、ひとつずつ。

レンズを、とおして

せんせいをしていると、日常のすべてが、教材研究になる。

道ばたの草も、夕暮れの空も、電車の音も。ふと、これは授業でどう使えるかな、と考えている自分がいる。

視点の数だけ

おもしろいのは、同じ一つのものでも、教科の視点で見ると、見え方が、まるでちがってくることだ。

一枚の落ち葉。理科の目で見れば、葉脈や、光合成や、季節のうつろい。図工の目で見れば、色や、形や、かたむき。国語の目で見れば、この葉をどんな言葉で書きあらわそう、と。算数の目でなら、この形は、この数は、と。——同じ落ち葉なのに、目を変えるたびに、ちがう世界が立ち上がる。

視点の数だけ、世界の見え方が、変わる。それは、せんせいというしごとの、ゆたかなところだと思う。

でも、それは世界そのものではない

ただ、と、ふと立ち止まる。

そうやって見えてくる世界は、たぶん、世界そのものとは、ちがう。それは、あくまで、せんせいというしごとをするための「眼鏡」をとおして見た世界。理科のレンズ、国語のレンズ、算数のレンズ。——どれも、世界を「教材」として見るための、レンズ。

レンズをとおすと、世界は、たしかに、くっきり見える。でも、くっきり見えるということは、同時に、そのレンズが照らさないものを、見えなくしている、ということでもある。

レンズは、大切だけれど

もちろん、そのレンズは、大切だ。

このレンズがあるから、ぼくは、目の前のものを、授業にできる。子どもたちに、世界のおもしろさを、手渡すことができる。せんせいという職業を続けていくうえで、この「教科の目」は、欠かせない、大切な視点でもある。

でも、それが「レンズをとおした世界」だということは、忘れないでいたい。落ち葉は、ほんとうは、理科でも、図工でも、国語でもない。ただ、そこに、落ちている。子どもだって、そうだ。ほんとうは、どの教科の枠にも、どの評価の目にも、収まらない。ただ、そこに、生きている。

かけて、はずして

だから、ぼくは、二つの見方を、行き来していたいと思う。

レンズをかけて見た世界と、レンズをはずして見た世界と。教材として見た落ち葉と、ただ美しい落ち葉と。学ぶ主体として見た子どもと、ただそこにいる、かけがえのないその子と。

どちらか一つ、ではなくて。両方を、そのつど、見ながら。かけたり、はずしたり。——そうやって、今日も、ぼくは、授業を考える。レンズのむこうの世界と、レンズのない世界の、その両方に、目をひらいていられたら。きっと、そのときはじめて、授業は、子どものいる、ほんとうの世界に、少しだけ、近づくのだと思う。