ふれられないところ
無意識って、とても大事だと思う。
ふだん、あまり口にしない言葉かもしれない。でも、子どものそばにいると、この、目に見えない深みのことを、思わずにはいられなくなる。
なぜ、その子はそれを
子どもが、何かを言おうとする。そのとき、その子の意識は、たしかに、そのことについて考えている。
でも、ふと思う。じゃあ、その子の意識が、それを考えるに至ったのは、なぜだろう。きっと、これまでの体験や、想いが、あるのだろう。あの日の出来事。だれかのひとこと。うまく言えないまま、心にのこったなにか。
では、それが心にのこっているのは、どうしてだろう。なぜ、ほかのことは忘れて、それだけが、その子のなかに、生き続けているのだろう。——そうやって、問いを一つずつたどっていくと、いつのまにか、こちらの手が、届かないところへ来てしまう。
触れられないものがある
心の奥深く。存在の、深いところ。そこには、たぶん、人が、自分自身でさえ、ふれることのできないものがある。
なぜ、これが好きなのか。なぜ、あれに、あんなに胸が動いたのか。なぜ、この子は、この子なのか。ほんとうのところは、本人にも、わからない。ぼくにも、ぼく自身のいちばん深いところは、見えない。
そこが、ぼくたちの、子どもたちの、とても不思議なところ。意識の下に、自分でも汲みつくせない、暗くて、ゆたかな水脈がある。何かが生まれてくるのは、いつも、そこからなのだと思う。
土台が、ちがってしまう
この、不思議なところを、あるものとして認めるかどうか。ぼくは、そこが、とても大きいと思う。
もし、子どもを、見えるものだけで、説明できるものだけで、とらえてしまったら。この点数、この行動、この性格——そう、わかったことにしてしまったら。たぶん、立っている地平が、根っこから、ちがってしまう。土台がずれたまま、どれだけ考えても、大事なところには、届かない。
深いところに、触れられないものがある。まず、それを認める。その上で、はじめて、子どものことを、ほんとうに考えはじめられるのだと思う。
だから、かけがえがない
だから、他者は、子どもは、分かりきることのできない存在なのだろう。
そして、分かりきれない、ということは、けっして、遠いとか、冷たいということではない。むしろ、逆。汲みつくせないほどの深さを、その子が持っている、ということ。ぼくが一生かかっても、見終えることのできない世界を、目の前のこの子が、まるごと生きている、ということ。
分かりきれないからこそ、かけがえがない。見終えられないからこそ、ずっと、大切にできる。子どものいちばん深いところに、ぼくは、たぶん、一生、たどりつけない。それでいい。いや、それが、いいのだと思う。