省察とあのとき感じていたこと
自分は、子どもたちにとって、いい先生だったのだろうか。
ときどき、そんなことを、思う。少なくとも、あの子たちを、傷つけたりは、しなかっただろうか、と。
反省ばかりの日々
正直に言うと、思い返すのは、反省ばかりだ。
あの日々は、たしかに、すてきな思い出。でも、それと同時に、こみあげてくる。もっと、やさしく接してあげればよかった。もっと、こうすればよかった。あのとき、ああ言わなければよかった。——数えあげたら、きりがない。
たぶん、ぼくのなかに、「こうあるべきだ」という思いが、強かったのかもしれない。子どもたちに対しても。そして、自分自身に対しても。いい先生で、あらねばならない。もっと、うまくやらねばならないと。
省察は、大切だけれど
ふりかえること。省みること。それは、とても、大切なことだと思う。
そうやって、自分の至らなさに気づき、次は、もう少しちがう自分でいたいと願う。その積み重ねが、たぶん、ぼくを、少しずつ、育ててくれてきた。省察は、せんせいのしごとに、欠かせないものだ。それは、間違いない。
でも、最近、ふと思うことがある。省察をすればするほど、あのとき、子どもたちと過ごした、かけがえのない日々が、なんだか、少しずつ、別のものに、書き換えられていく気がする。「反省すべき日々」という記録に。
あのとき、感じていたこと
でも、ほんとうは、どうだったろう。
あのとき、教室で、ぼくは、たしかに、なにかを感じていた。うれしさ。とまどい。あの子たちへの、いとおしさ。うまくいかない、もどかしさ。——それは、「べき」でも、「反省」でもない、その瞬間の、生きた感じだった。
いま、あとから、「もっとこうすればよかった」とふりかえる。それは、大切なことだ。でも、その「あとからの目」で塗り替えてしまうには、あのとき感じていたことは、あまりに、生き生きとしていて、かけがえがない。あの瞬間の、あの感じ。それ自体もまた、ぼくは、大切に、しまっておきたいと思う。
二つを、両手に
だから、たぶん、両方なのだ。
これからのために、省みること。至らなさを、引き受けること。——それは、続けていく。でも、それと同じくらい、あのとき、せんせいとして、たしかに感じていたこと。子どもたちと生きた、あの生の手ざわり。それも、反省で上書きせずに、そのまま、大切にする。
反省する自分と、あのとき生きていた自分。どちらかが正しくて、どちらかが間違っている、のではない。どちらも、ほんとうの、ぼくなのだ。
いい先生だったかどうかは、たぶん、わからない。でも、あの子たちと過ごした日々を、ぼくは、たしかに、いま、大切に想っている。——それだけは、反省よりも、ずっと、ほんとうのことのような気がしている。