「したい」が、先に
子どもたちに、学ぶことの楽しさを、味わってもらいたい。ずっと、そう思っている。
でも、その「楽しさ」は、どこから来るのだろう。考えてみると、いつも、あるひとつのところにたどりつく。
「したい」が、先にある
何かを、もとめたとき。どうしても、それがしたいとき。それについて、知りたくて、分かりたくて——気づいたら、のめり込んでいる。
学びは、たぶん、そういうふうにして始まる。だれかにやらされて、ではない。子どもの「したい」が、いつも、先にあるのだ。したいから、知りたい。知りたいから、調べる。調べるから、もっと分からないことが出てくる。そうやって、こちらが何も言わなくても、ひとりでに、前へ、前へと進んでいく。
「したい」が先にある。だから、学びはおもしろいし、楽しい。
やらずには、いられない
ほんとうに何かをもとめているとき、子どもは、やらずにはいられない。考えずにはいられない。
止めても、やる。休み時間になっても、続けている。家に帰っても、気になっている。それは、もう、努力とか、我慢とか、そういうものとは、別のところにある。ただ、したいから、している。知りたいから、考えている。——その姿は、ほんとうに、いい。うつくしい、とさえ思う。
もう、終わりにしない? やだ、まだやる。そんなやりとりを何回したことか。 その子の「したい」とともにある学びは、もう「勉強」ではない。その子自身の、生きることの、一部になる。
要は、そこじゃない
だから、と思う。授業の仕方が、どうとか。宿題を、どうするとか。——もちろん、それも大事だ。でも、要となるのは、たぶん、そこじゃない。
方法をどれだけ工夫しても、その子のなかに「したい」が生まれていなければ、学びは、動きださない。逆に、「したい」さえ立ち上がれば、子どもは、こちらが驚くような道を、自分で見つけて歩いていく。方法は、その「したい」に、火がついたあとの話なのだ。順番を、まちがえないようにしたい。
もとめて、やまない
こころの「渇望」なのだと思う。もとめて、やまないこと。
のどが渇いて、水をもとめるように。どうしても知りたい、分かりたい、たしかめたい——その、もとめてやまない気持ちのなかからこそ、学びの喜びも、おもしろさも、やりきったときの充実感も、生まれてくる。
だから、せんせいのしごとは、たぶん、「したい」を教えることではない。その子のなかに、すでにある「したい」を、見つけること。じゃまをしないこと。そっと、火を大きくすること。子どもが、もとめてやまないもの。そこに、いつも、いちばん大切なものがある気がしている。