験(ため)される場所
手数が増えると、嫌になる。
子どもたちを見ていて、そう思う。そして、子どもだった自分を思い出しても、そう思う。ほんとうに必要な分だけでいい。
験(ため)される、ということ
それは、自分でチャレンジして、うまくいかなかったのとは、まるで違う。
自分で挑んで、ころんで、くやしくて、もう一回。——それは、つらくても、どこかおもしろい。自分の学びだから。でも、そうじゃない種類の「うまくいかない」がある。大人に、験(ため)されている、というやつ。
こうやってみてごらん。これは、分かる? このときは、どうする? それは、なぜ?——問いが、次から次へと飛んでくる。ひとつ答えると、すぐ次が来る。気づけば、こちらが確かめられている。試されている。学びの手ざわりは消えていく。
学校が、験される場所に
いつからか、学校が、験される場所になっていく。
もちろん、必要なやりとりはある。問い返しが、その子の考えを、もう一歩先へ連れていくこともある。でも、それは、ほんとうに必要な分だけでいい。験すための問いが増えすぎると、子どもは、身がまえ、まちがえないように、正解を探す。——そうなると、学ぶこと自体が、だんだん、嫌になる。
いちばん、こわいのは、そこ。あんなにおもしろかったことが、つまらなくなる。夢中だったものから、心が、そっと離れていく。験されつづけた場所で、「したい」が、しぼんでいく。
よく知っている人が、いる
かつて子どもだったぼくたちのなかには、たぶん、このことを、よく知っている人がいる。
あの、問いつめられた感じ。分かっているのに、言えなかった感じ。ほんとうは好きだったのに、いつのまにか、きらいになってしまった、あの感じ。ことばにしてこなかっただけで、からだのどこかが、ずっと覚えている。——だから、いま、子どものそばにいて、思う。あの子に、同じ思いを、させていないだろうか、と。
そろそろ、そうじゃなく
大人になったぼくは、たくさん、子どもを験してきた。
よかれと思って。分かっているか、確かめたくて。力になりたくて。——でも、あの問いの矢印は、きっと、いくつも、子どもに刺さっていた。それを、なかったことには、できない。
そうじゃなく生きていきたい。験す人ではなく、となりで、ともに見る人として。ほんとうに必要な、そのひとことだけを、そっと。あとは、その子の「したい」を、信じて待つ。子どものそばに、そういうふうに、いたい。