プロフィール

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SENSEI NO SHIGOTO

教室で子どもたちと過ごしてきた日々のなかで、考えたことを書いています。ゆっくり、ひとつずつ。

その子の、分かり方

授業中、ひとりの子が、とんでもない方法で、問題を解いていた。

ぼくが教えたやり方とは、ぜんぜんちがう。遠回りに見えた。「こうやったほうが、はやいよ」。——そう言いかけて、ぼくは、口をつぐんだ。その子は、その子なりのやり方で、ちゃんと、答えにたどりついていた。ぼくの「はやいよ」は、だれのための言葉だったろう。

自分の世界から

ぼくは、どうしても、自分の見ている世界から、こどもを見てしまう。

こうあったほうが、この子のためだ。それは、ちょっと難しいんじゃないか。——よかれと思って。ほんとうに、そう思って。でも、それは、ぜんぶ、ぼくの世界から見た「ため」であり、「難しい」だ。ぼくのものさし。ぼくの地図。そのうえに、その子を、のせようとしている。

そうやって、ぼくは、どこかで、その子の意識を、少しずつ、縛っていってはいないだろうか。「こっちが正しい」「そっちは難しい」。そのひとことが、その子の、のびようとしていた、何かを。

学校も、授業も

考えてみれば、学校そのものが、そういうふうに、できている。

大人がつくった枠。大人が決めた順番。大人が「分かりやすい」と思う、教え方。授業も、おなじだ。どう教えれば、伝わるか。ぼくたちは、いつも、「こちらから」考える。でも、そのとき、こども自身の発想は、こども自身の見方は、どこにいるのだろう。

ほんとうは、その子が、どう見ているか。その子が、どう分かろうとしているか。そっちから、出発しないと——いけなかったのかもしれない。

その子の、分かり方

ぼくが「分かった」と思うことと、その子が「分かった」と感じることは、きっと、おなじではない。

ぼくのやり方で、ぼくの順番で、うまく説明できたとき。ぼくは、「分からせた」と、満足する。でも、それは、ぼくの分かり方を、その子に、なぞらせただけかもしれない。その子には、その子の、入口がある。その子の、道すじがある。そこから出発したときにだけ、たどりつける「分かる」が、きっと、ある。

本当の意味で、その子が分かる、ということ。それは、ぼくの世界に、その子を連れてくることじゃない。その子の世界のほうへ、ぼくが、歩いていくことなのだと思う。

難しいなあ

そういう日々で、ありたい。こども自身の発想から、その子の見方から、出発できる日々で。

でも——難しいなあ、と思う。すぐに、ぼくは、自分の世界から、こどもを測りはじめる。「こうしたほうが」「それは難しい」。長年しみついた、そのまなざしは、そう簡単には、ほどけない。

それでも、あの日、「はやいよ」を飲みこめた。その子のやり方を、最後まで、見ていられたこと。——そんな小さな一歩を、ぼくは、これからも、ひとつずつ、積んでいくのだと思う。難しいなあ、と、ためいきをつきながら。それでも、その子の世界のほうへ。