分かる、ではなく
自分のことが、自分でも、よく分からない。
でも、それは、当たり前のことなのだと思う。分かるわけが、ない。
分かる、って
だって、「分かる」というのは、なにかを、対象として、外から眺めることだから。
こういうものだ、と、枠に入れて、名前をつけて、手のなかに収める。それが「分かる」ということ。でも、自分は、自分にとって、そんなふうに外から眺められる「対象」ではない。ぼくは、ぼくを、生きている。眺めているのではなく、ぼくを生きている。
生きているということは、たぶん、頭で捉えられるものではない。捉えようとした瞬間、それは、生きられているものではなく、眺められた何かに、変わってしまうから。
子どもも、いっしょ
そして、それは、子どもも、まったく、いっしょ。
ぼくたちは、つい、子どものことを「分かろう」とする。この子はこういう子だ、と。でも、その子もまた、自分のことを、分かってなんかいない。ただ、生きている。今日を、この瞬間を、その子として、生きている。
分かろうとすると、こぼれていく。いちばん大切なところが、指のあいだから、こぼれていく。子どもは、分かる「対象」ではない。ぼくの前で、たしかに、生きている、一人の「その人」なのだ。
学びも、成長も
だから、と思う。学びも、成長も、ほんとうは、頭で捉えられるものではないのだ。
学びとは、その子が、生きているということ。成長とは、その子が、その子になっていくということ。それは、目盛りで測ったり、段階で分けたり、「どこまで進んだか」と眺めたりできる、そんなものではない。
もちろん、便宜として、測ることはある。分けることもある。でも、そのものさしが捉えているのは、生きることの、ほんの、外側の影のようなもの。ほんとうの学び、ほんとうの成長は、その奥で、静かに、息づいている。捉えられないところで。
分かる、の手前で
人が、その人として、生きていくということ。
それは、そもそも、分かる・分からない、という次元の、ずっと手前にある。あるいは、ずっと奥にある。分かろうとする手が、届かないところ。でも、いちばん確かに、そこに在るもの。
だから、ぼくは、子どもを、分かろうとするのを、少し、やめてみたい。分からないまま、その子が生きているということを、ただ、認める。その、分からなさこそが、その子が、かけがえのない「その人」であることの、なによりの証なのだから。
分からない。分からなくて、いい。 ただ、あなたが、あなたとして生きている。それだけで、もう、じゅうぶんなのだ。