まず、やってみないと
とにかく、まずは、やってみないと。
やってみないと、始まらない
パソコンも、AIも。鉛筆と消しゴムも、自転車も。——どんな道具だって、まずは、使ってみないことには、始まらない。
使ったことのない道具を使うときは、いつだって、手探りだ。うまくいかなくて、あたりまえ。転んで、こすって、まちがえて、それでも触っているうちに、少しずつ、手になじんでいく。自転車だって、そうやって乗れるようになった。
大事なのは、たぶん、その道具を「どう使うか」だ。そして、どう使うかは、使ってみないことには、わからない。
制限してしまうと
だから、と思う。使うこと自体を、先生が、はじめから制限してしまうと、どうなるだろう。
たぶん、適切な使い方だって、できるようにならない。だって、使っていないのだから。手探りする機会そのものを、奪ってしまうことになる。「危ないから」「まだ早いから」と遠ざけているうちに、子どもは、いちばん大切な「どう使うか」を、学びそこねてしまうかもしれない。
新しいものが生まれたときは、いつだって、こうだったのだと思う。紙ができたとき、石板を使っていた人たちのなかには、「紙なんて」と、使わなかった人もいたときく。でも、世界は、紙のほうへ、進んでいった。
せめて、邪魔をしない
新しい道具の前で、大人が、できること。それは、そんなに、多くないのかもしれない。
でも、せめて、邪魔をしないこと。子どもの目の前にある、その、新しいものとの出合いを、そっと、見守ること。それくらいは、できるはずだ。
ぼくたち大人が見てきた世界は、もう、ない。そして、ぼくたち大人が思い描いている世界も、まだ、ないし、そういう世界になるかも分からない。子どもたちが、いま、見ている世界。子どもたちが、これから、使っていく道具。——それは、ぼくたちのものとは、たぶん、ちがう。
どう使うか
だから、「使うか、使わないか」という議論は、きっと、もう、ない。
好むと好まざるとにかかわらず、子どもたちは、使わざるを得ない。世界は、そのほうへ、変化しているし、止めることは、できない。ぼくたちが石板にしがみついても、世界は、もう、次のページをめくっている。
問いは、一つ。どう、使うか。
その問いを、子どもといっしょに、手探りしていく。ときには、ぼくのほうが、教わりながら。転んでも、まちがえても、大丈夫だよ、と、そばにいながら。——それが、これからの、せんせいのしごとの、一つのかたちなのかもしれない。まずは、やってみること。子どもと、いっしょに。