よい、わるいの、むこう
職員室で、こんな言葉をきく。
よい学校にしよう。よい授業をしよう。よい教育を。——どれも、大切な言葉。あたりまえの、まっとうな願い。ぼくも、何度も、口にしてきた。でも。
よくしよう、ということ
「よい学校にしよう」。——その言葉は、どこを見ているだろう。
よくしよう、というとき、ぼくたちは、たぶん、今の「よくないところ」を見ている。ここが足りない。あそこがまずい。だから、直そう。よくしよう。よい授業も、よい教育も、きっとおなじだ。「よく」の裏には、いつも、「まだ、よくない」という、もうひとつのまなざしが、はりついている。
改善は、大切だ。それは、よく分かる。でも、ずっと「よくないところ」を見つづける毎日は、どこか、つかれる。子どもを見るときにも、その癖が、しのびこんでこないだろうか。「この子の、よくないところ」を。
よい、わるいの、むこう
ふと、思う。学びや教育には、「よい/わるい」とは、ちがう世界が、あるのではないか。
子どもが、何かに、夢中になっている。その時間は、「よい学び」でも「わるい学び」でもない。ただ、ゆたかに、そこにある。花を見て、息をのむ。友だちと、笑いあう。できなかったことが、できるようになる。——それらを、「よい・わるい」のものさしにのせた瞬間、何かが、こぼれ落ちていく気がする。
ものさしは、便利だ。でも、ものさしをあてる前の世界が、ほんとうは、いちばん、ゆたかなのかもしれない。よい、でもなく、わるい、でもなく。ただ、その子が、いま、生きている。その、手前の世界。
戦うの?
ときどき、「学校経営の戦略」という言葉を、聞く。
はじめて聞いたとき、ぼくは、すこし、きょとんとした。戦略。戦う、ということ。——学校は、だれと、戦うのだろう。子どもと? よその学校と? それとも、今の自分たちと?
もちろん、言葉のあやだ。悪気もない。でも、学びや、子どもの育ちを語るのに、「戦う」ための言葉を、借りてくる。そのことに、ぼくは、ちいさな違和感をおぼえる。学校は、戦う場所だろうか。勝ち負けを、競う場所だろうか。——ぼくには、どうしても、そうは思えない。
ものさしを、置いて
よい学校を、めざさなくていい、と言いたいのではない。
ただ、ときには、「よい/わるい」のものさしを、そっと、机に置いてみたい。勝つための戦略も、わきに置いて。そうして、ただ、目の前の子どもを見る。この子が、いま、何を感じ、何に夢中になっているのか。それは、よいも、わるいもなく、ただ、かけがえがない。
ものさしを置いたとき、はじめて見えてくる世界が、ある。学びや教育の、ほんとうのゆたかさは、たぶん、そっちのほうにある。ぼくは、よい・わるいの、そのむこうで、子どもたちと、一緒にいたい。