せんせいのしごと
教室の日々のなかで、ぼくが考えたこと。ゆっくり、ひとつずつ。
-
こどもは、ファンタジーのなかを生きる
絵本を読んでいる子どもの顔を、すぐそばで見ていると、感じることがある。その子は、いま、物語のなかにいる。ページの向こうの世界を、ほんとうに生きている。子どもにとって、空想は、つくりものではない。
- New
銀河鉄道の夜のこと
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が、好きだ。何度も、何度も読んだ。読むたびに、切ない。でも、その切なさのなかに、いつも、こどものゆたかな「生」を感じる。悲しいのに、どこかあたたかい。そういう不思議な読後感が、ずっと残る物語だ。
-
「先生」にならないように
逆説めいた言い方になるけれど、せんせいは、「先生」にならないほうがいいのかもしれない。ときどき、そう思う。先生になると、役割のほうが、その人をつくりかえていく。
-
せんせいのしごとは、ランニングに似ている
今日も、走った。走りながら、ふと思う。学校教育というのは、ある意味で、ランニングに似ているな、と。短距離走ではなくて、うんと長い距離を、こつこつ走っていく。それに近い気がするのだ。
-
出合うということ
あの子は、何が言いたかったのか。もう卒業して、何年も経つのに、ふとした瞬間に、その顔が浮かぶ。ぼくは、あの子にちゃんと出合えていたのだろうか。かかわれていたのだろうか。答えは、いまも出ない。
-
記録の中に、子どもはいない ―ともにいる時を―
先生の仕事で、自分がいちばん力を出したいのは、いつだろう。当たり前のことだけれど、それは子どもといるとき。でも、その当たり前が、案外むずかしい。気づくと、子どものいない時間のほうに、いちばん力を注いでいることがある。
-
こどもといるって、ふしぎ
卒業していった教え子に、会うことがある。すっかり大人になっている。正直に言うと、はじめの一瞬、誰だか分からない。でも、少し話しているうちに、大人びた今の顔の奥から、小さかったころの面影が、にじみ出てくる。
-
その子が見ている世界を
「子どもが好きなんですね」と言われることがある。先生をしているから。誰でも、口では「子どもが好き」と言える。でも、ほんとうに好きかどうかは、たぶん、言葉ではないところで、分かってしまうものだ。
-
出合いとしてのあいさつ
朝、校門に立って、登校してくる子どもたちと「おはよう」を交わす。何十回、何百回と繰り返してきた、ありふれたやりとりだ。あいさつは「大切なもの」として教えられる。でも、その「大切さ」を、どこかで取りちがえてないだろうか、と最近思う。
-
学びは、向こうからやってくる
算数の時間、ずっと首をかしげていた子が、ある瞬間、「あ」と言う。目の色が変わって、さっきまで止まっていた手が、急に動きだす。ぼくは、特別なことは何もしていない。さっきと同じ説明を、もう一度しただけだ。でも、さっきは届かなくて、いまは届いた。あの「あ」は、いったいどこから来たのだろう。